先日渋谷で見た戦時中に旧区立渋谷小学校の児童が金木町へ疎開したという話。。
金木町の資料にその事が記録されていたというんです。
しかもその電話をくれた方のお母さんが子供の頃に疎開して来た子供たちと一緒に遊んでいたそうです。。
これには驚きました!
昭和20年6月7日から約4ヶ月間「原宿第三国民学校」という名で生徒80名、先生8名がたしかに来ていたと。
津軽三味線会館近くの南台寺にお世話になっていたらしいです。
お寺の檀家さんらに手厚くおもてなしを受け、毎日白米、野菜を食べていたそうです。
もう家族みたいだったんでしょうね。
作家太宰治(本名津島修治)の生家である斜陽館にも近く津島家でもお世話をしていたんだとか・・・
ある日金木町にも空襲があり南台寺本堂に爆弾一発が落とされたそうですがお祀りしてある阿弥陀如来の頭をかすめ地面に抜け落ち、神がかり的に全員ケガもなく本堂もさほど壊れず助かったんだとか。。
その落とされた破片は今でも残っているという。。
そして4ヶ月の疎開を経て東京に戻る時はリュックにお米や野菜を沢山入れて行ったそうです。
しかもその子供たちは皆太って帰ったんだとか(笑)
心温まる話ですね。
因みにここから先は総務省の一般防災ホームページより見つけました。
渋谷区では昭和19年4月1日に3.254名の児童が縁故疎開をしていたらしいです。
その後空襲が本格化しそれぞれ17校が静岡県へ、5校が富山県へと疎開し、昭和20年4月に激しい空襲を避け渋谷区に残っている児童22校が富山県へ疎開。
ところが静岡県に疎開していた児童に空襲の危険が出てきた為に昭和20年6月に青森県に再疎開したとありました。
富山の某小学校と渋谷区の某小学校が交流し、そこから発展して両自治体もお互いに交流しているんだそうです。
いい話ですね。
皆で助け合って精一杯生きてきたんでしょうね。励まし合って支えあって。。
昔じいちゃんから生前よく聞いてました。
「大東亜戦争」
近距離で後ろから銃弾を二発(肩、膝)撃たれてしまい貫通。小さい頃その傷を見せてくれました。
戦争、殺し合い、絶体あってはいけないです。
よくじいちゃんが言ってました。
「どんな猛獣より一番怖い生き物は人間なんだと・・・」